2018年09月20日

仏教を勘違いしている人が多い


 仏教を正しく理解している人は少ないと思っています。多くの日本人が仏教に接するのは、人が亡くなった時や親族の法事などの時でしかない人がほとんどだと思います。


なので、死者を弔ったり、ご先祖様を供養するためにあるのが仏教だと捉えているいる人がほとんどではないでしょうか?


あるいは、仏教の知識がある人でも、死後の世界に対する神秘的なイメージでとらえている人が多いのではないでしょうか?


ところが仏教の創始者であるお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)は、我々が抱いているようなイメージとはまるで違った考え方なのです。


お釈迦様が死に直面した時に、弟子の阿難(アーナンダ)に、葬式に僧侶が関わることはない、信者にまかせよと言っているのです。


お釈迦様は仏教の修行者は葬儀に参加する必要はないと言い切っています。つまり、仏教の修行者にとって大事なことは、「今どのように生きるべきか」であって、死後のことに心を煩わせるのは意味がないと考えていたのです。


現在の日本では、葬式や法事を取り仕切ることで頭が一杯のの僧侶が多いと思います。もちろん僧侶ですから、日々の修業は積んでいるはずですが、妻帯し子を持つのは当たり前で、お酒を飲んだり肉食している僧侶も多いようです。


お釈迦様の教えを忠実に守っている僧侶は少数派だと言えるでしょう。それを批判しているわけではないのです。現代においてお釈迦様の時代のように托鉢だけで食べていくなんてことはできませんからね。


それではお釈迦様は何がしたかったのかというと、現生で生きている人に幸せになってもらうために、お釈迦様が悟ったことを説いて歩いたのです。

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 お釈迦様の教えは、あくまでも、この現世でどのように生きるべきかということであって、死んで極楽浄土に行くことを目的としていないのです。


ですから、四国遍路に興味を持ちお遍路をしたいと思っている方は、現世で幸せになることを願い、歩いてほしいと思っています。

2018年07月13日

顕教と密教の違いとは


 顕教と密教の違いについて調べていると、真言宗僧侶である有坂脩岳(ありさか しゅうがく)氏が自身のブログで次のように説明していたので紹介します。

 顕教と密教の違いを一言でいうと、
顕教は、厳しい修行を積んで、仏になる教え
密教は、仏のまねをして、仏らしく生きていく教え



 この説明はとても上手いと思います。

もともと「顕教」という言葉は、真言宗の開祖である空海が作り出したものなのです。空海の真言密教と他の仏教宗派との違いを説明するために「顕教」という言葉が必要になったのだと思います。


顕教と密教とでは、「成仏の意味内容」「成仏の捉え方」「成仏に至る修道方法」などが大きく違います。有坂脩岳氏の説明のように、顕教では厳しい修行を積まなければ成仏できません。


しかし、密教では厳しい修行を積むことなく、仏のまねをして、仏らしく生きていけば成仏できると教えています。


もう少し詳しく説明すると、顕教では、仏に成ること(成仏)を「智慧の完成」と捉えていて、真理や実相の知的な認識や獲得することが成仏であると考えられています。


これに対して、空海の密教では、成仏とは仏の智慧を実践することであって、仏として為すべき行為を(現実の社会の中で)実行することだと捉えています。


したがって密教では、「智慧の完成」は入り口でしかなく、仏の行為を為すことが仏に成ることであると捉えられているのです。



 顕教と密教の違いが理解できましたか?

顕教と密教とを比べると顕教の教えは表層にとどまるとされています。これまでの説明で密教の方が奥深い物だと分かったと思います。


さらに、出家して僧侶の道を歩まなくても、在家の身で三蜜加持(さんみつかじ)の修業をすれば、即身成仏できる真言密教の方がいいですよね。敷居が低いというか取り組みやすいですから。

2018年05月29日

即身成仏とは?


 空海は唐に渡り恵果大師から正当な後継者として密教を伝授されました。そして日本に帰ってから、真言宗を開いたのです。


 真言宗における空海の思想の中核をなすのが、「即身成仏」という考え方です。

衆生(我々のような普通の人間)と仏とは本来同一なので、衆生が三密を行えば、それがそのまま仏のと相応して,仏の加護を受け,仏と同一となれると言われています。これが三蜜加持(さんみつかじ)です。


密教の教えを簡単に言うと、三蜜加持(さんみつかじ)つまり「身口意(しんくい)の教え」です。真言宗では、身口意のことを「三蜜(さんみつ)」と呼びます。つまり、身密(しんみつ)、口蜜(くみつ)、意蜜(いみつ)のことです。


身密とは身体を使って仏の力を感じることです。私たちの身体にも仏が宿っているので、座禅や瞑想をする事によって、仏を感じることができるというのが身密なのです。


口蜜とは真言のことです。真言を唱えることによって、仏を感じることができるというのが口蜜です。般若心経を唱えるのは、まさに真言を唱えることなのです。


最後に意蜜です。意蜜とは心を大日如来の境地に持っていくことです。つまり心が空になるまで、座禅や瞑想をするのです。意蜜とは空そのものになることなのです。簡単にはできませんが、真言宗にはそういう修行法があるのです。



 三蜜加持の修業を行うことで仏と同一になれる、つまり悟りの境地に至り即身成仏できるのだと考えていました。しかし、真言宗の勉強をしていると、そうではないことが分かりました。


「即身成仏」とは「生きたまま仏になる」という意味です。それをそのまま理解すると、三蜜加持の修業によって即身成仏できると考えてしまったようです。


しかし、「即身成仏」というのは、「今ここで大日如来を受け入れること」、つまり「今ここで空を受け入れること」なのです。


空海は、「今ここで涅槃に行ける」と言い切っているのです。つまり空を受け入れた瞬間から、既に涅槃に行っているということです。


とはいうものの、我々のような凡人が「今ここで大日如来を受け入れること」ができるのでしょうか。どうやって受け入れればいいのでしょうか。